坂本龍馬の大政奉還への想いと考えについて

「大政奉還」と聞くと一番に頭に浮かぶのは、幕末の英雄である坂本龍馬ではないでしょうか?

もちろん実際に「大政奉還」までこじつけたわけではなく、坂本龍馬が成したのは間接的に必要であるとされる部分を整えて回っていたことといえるでしょう。

ですが、そんな働きが無ければ結果として何も変わらず。

もしかしたら今の日本すらなかったのかもしれません。

坂本龍馬はどんな想いと考えによって「大政奉還」への道を示し続けていたのでしょうか?

それでは、坂本龍馬の「大政奉還」への想いや考えについてお話していきます。

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坂本龍馬が成した大政奉還において目指していた物とは?

新時代のきっかけとなったのは、黒船事件でした。

その様を見た坂本龍馬はこのままでは日本は外国と渡り合うことも出来ずに大変なことになってしまうのではないかと思ったといわれています。

そう、国内で争いを続け国力の低下などが起きていては、来るべき新時代を迎えても外国にいいように扱われるかもしれないと思ったのです。

それこそその隙を狙われ干渉されてしまうという考えだったのでしょう。

その時期国内では内紛などが多くあったため、まずそれらの争いを抑える事と、その元になってしまっている幕府の権限を本来あるべき場所である天皇のもとへと返すことを考えていくのです。
それが坂本龍馬の無そうとした「大政奉還」でした。

坂本龍馬が「大政奉還」を目指して動く

とはいえ、当時の彼は千葉道場での修行の為に江戸に出てきたばかりで何の力もありませんでした。

その後、更に脱藩して浪人になった場合も同じです。

しかし、後に勝海舟の弟子として師事して行きます。

その過程で神戸で勝海舟が開いた海軍操練所の塾頭となって、蒸気船に帆船などの運用技術などを学んで政治活動を行い始めます。

1864年の勝海舟の失脚に伴い塾の閉鎖の際には新たに亀山社中を設立します。

そう、日本初の株式会社の設立の時です。

この会社の設立には塾の閉鎖からそこにいた人たちのうち、元の藩にかいることが出来る人はまだしも、浪人であればそれすらできないという事もあり、彼らの受け入れ口という意味合いからも西郷隆盛とのやり取りの上で設立となりました。

その運営としては薩摩藩の所有する船舶運営に武器に物資の買い付けが主となります。

そして、この亀山社中はのちに「海援隊」へとなっていくのです。

坂本龍馬が唱えた案

そんな中坂本龍馬は様々な場で立ち回り「薩長同盟」を成立させます。

これにて、幕府は終わりを迎えるように進めていき、同時に「船中八策」を唱えたといいます。

それこそが「大政奉還」に関するものだったとされています。

その案は土佐藩の先代藩主である、山中容堂によって実施される形となったのでした。

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