幕末の英雄、坂本龍馬は新時代への大義である大政奉還に間接的とはいえ確実に影響を与えてきました。
そうして大義がなされこれからという時に近江屋事件において暗殺という形でその生涯を閉じる事となってしまいました。
しかし、その近江屋事件において坂本龍馬が誰に殺されたのかという謎は未だに改名されていない歴史ミステリーと化してしまっています。
しかも、その犯人像に関しても多くの意見や説が出ており、真実には程遠いともされています。
それでは、坂本龍馬は誰に殺されたのかについて歴史解説などを踏まえてお話していきます。
坂本龍馬が殺された「近江屋事件」とは?
それではまず坂本龍馬が暗殺されたとされる「近江屋事件」についてお話しておきましょう。
1867年12月10日に坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉達3名は京都の近江屋井口新助邸にて暗殺された事件を「近江屋事件」と呼んでいます。
そもそも今まで坂本龍馬は寺田屋を定宿としていましたが、その寺田屋が幕府に目を付けられてしまい寺田屋事件が起きてしまった為、定宿を何度か変えて慶応3年10月に近江屋へと移る事となります。
龍馬は土佐藩邸に入れないという事で、薩摩藩邸にと勧められもしましたが、それは出来ないという事で近江屋にという事になったといわれています。
そして、11月15日の夕刻に中岡慎太郎が近江屋に現れ話し合いをしていたところ、夜間に十津川郷士を名乗る人物が坂本龍馬を訪ねてきます。
その案内の途中に騒ぎが起き暗殺という形で坂本龍馬は倒れ、同じ場所にいた中岡慎太郎も数日後に命を落としたとされています。
坂本龍馬は誰に殺されたのか?
坂本龍馬暗殺において誰に殺されたのかという話は多く上がっています。
しかし、そのいずれも説の域を出る者がいないとされます。
いくつか上がる犯人像としては「新選組」や「見廻組」。
紀州藩士の報復説や薩摩藩陰謀説、外国陰謀説などが上がっています。
誰に殺されたのか?その理由から浮かび上がる犯人像
様々な説が上がる坂本龍馬暗殺の真実ですが、その中でも理由(動機)があるとされるものもあるようです。
例えば薩長同盟に関する者であれば、戦争によって幕府を倒すことを考えていたところへ坂本龍馬の介入があった事から全く平和的に事は解決してしまい、意気込んでいたものの不完全燃焼が向いてきたというものもあります。
土佐藩がらみであれば、元々土佐藩士であった龍馬は脱藩してから多くを成しています。
その活躍が妬ましくなってという事も考えられます。
その他にも紀州藩は龍馬と船の沈没事故により大金を支払う事となったことを恨んだとか、会津藩に関しても龍馬をねたんでいるという事も考えられます。
しかも、幕府も坂本龍馬の行動の正で倒されたと考える関係者もいた模様。
これらを踏まえて多くに恨まれていた龍馬の暗殺説は後を尽きないようです。