坂本龍馬と吉田松陰の出会いはなかった?その関係性とは

幕末に活躍したい人として名高い坂本龍馬ですが、同じくらい有名とされている人物の1人に吉田松陰という人物ではないでしょうか?

この2人はドラマなどでも取り上げられており、関係が深いように思う方も多いのではないでしょうか?

しかし、この2人の関係としてはこれというものがあまりないのも事実です。

何より、この実際に2人の出会いはなかったとされる見方の方が強いのです。

それでは、坂本龍馬と吉田松陰の関係とその出会いがあったかについてお話していきます。

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吉田松陰について

まず坂本洋間との関係や出会いについて説明する前に、吉田松陰についてお話していきましょう。

この吉田松陰という人物は文政13年8月4日、長門国萩の松本村で長州藩士である杉百合之助の次男として生まれた長州藩士であり、思想家であり教育者であり更に兵学者だもあったとされる人物でした。

幼名を杉寅之助といい、容姿後には名字が吉田に代わり、虎次郎という通称に改める事となります。

1834年(天保5年)に叔父の吉田大助の養子になることが決まっていましたが翌年に大助が死去してしまい、6歳で吉田家の家督を継いだとされています。

後にもう1人の叔父である玉木文之進の開いた私塾である「松下村塾」を引き継ぎ、その門下には高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文といった彼同様後世にまでその名を残すことになる偉人達が多くいたとされています。

吉田松陰の歩いた道

吉田松陰は11歳の時(1840年)に藩主である毛利敬親の前で山鹿流『武教全書』戦法篇を講義し、その後1845年に山田亦介のもとで長沼流兵学を学び1850年に九州地方へ遊学し、宮部鼎蔵と出会ったとされています。

1851年から江戸への遊学の際に佐久間象山のもとで洋学を学びその同じ年の12月には宮部鼎蔵と東北遊学の計画をしたものの、藩からの許可が下りるまでに時間が掛かり遅くなってしまい無断で遊学に出てしまい脱藩行為となってしまいます。

その中で坂本松陰は水戸に会津などを視察してから江戸にもどるのですが、脱藩の罪を問われてしまいます。

その結果は儀へと送られ、士籍はく奪と世禄没収となるのでした。

それかしばらくたった1853年にペリーが来航し、佐久間象山と黒船の視察をしたとされています。

その体験から海外息を決意し1854年に密航を試みるが失敗し再びは儀へ送還され投獄されるも1855年に出獄し杉家預かりの身で幽閉禁錮となりますが、1857年に先程お話した叔父の玉木文之助より「松下村塾」を引き継ぐこととなります。

しかし、1858年に幕府が日米修好通商条約を締結した事に憤慨してしまい老中・間部詮勝の暗殺を使用とするも、またも投獄されてしまうのでした。

その後1859年に先に述べた暗殺計画について自供し享年30歳で斬首刑になったとされています。

坂本龍馬との出会いはない?2人の関係について

さて、吉田松陰の歩いてきた道についてお話してきましたが、坂本龍馬と出会いがあったとされる記録はないとされています。

ただ、教え子であった高杉晋作や久坂玄瑞らとは坂本龍馬も面談していることから、間接的な関係があるか影響を受けたという形だったのだと思われています。

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