坂本龍馬の成した事と明治天皇について

幕末の英雄とたたえられ、近年も人気の高い歴史上の偉人、坂本龍馬。

彼は来る時代の為に走り回り、その激動の時代を次の時代に繋げる為に動き続け心成し半ばで散る事となったとされています。

ですがその働きで彼がなした大義は後の世に大きな影響を与え近年に至っています。

しかし、下級武士でしかなかった坂本龍馬はなぜそこまでの想いで行動に至ったのでしょうか?

彼は結局何をなしたのでしょうか?

そして、一武士でしかなかったはずの彼の名が何故、明治天皇との話にまで出てきてしまったのでしょうか?

それでは、坂本龍馬の成した事と、維新後の時代に明治天皇の周りで渦巻いていた思惑についてお話していきます。

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坂本龍馬が動くことになった時代背景

坂本龍馬が生まれた時代は長きに渡り続いた幕府の統治に陰りが出てきた時代とされています。

将軍職を継いで幕府の体制立て直しを図る徳川幕府。

しかし、その幕府を武力行使により倒してしまおうとする播種の動きなどが次第にひどくなっているこの時代。

このままでは大ごとになり、更に外国にも後れを取ってしまっては国が大変なことになってしまうという思いから、坂本龍馬は奔走し始めるのです。

そして彼が目指したのは武力行使以外の討幕でした。

坂本龍馬がなした事

坂本龍馬が目指した大義といえば「大政奉還」です。

この「大政奉還」とは当時政治を執り行い、実質日本を支配していた徳川幕府の将軍を、天皇の代理で政治を行うと定義し、その政治実行権を返上するという事を言います。

実際はどうあれ、最初から国の統治者は天皇であり、その代理を今まで将軍が行っていたと定義するところから考え始める事となったのです。

先程も述べた通り薩摩藩や長州藩は武力にて討伐を使用そしていましたが、それをしていては当時の大きな問題である外国との関係も不利になると考え、坂本龍馬はあえて平和的解決の為にこの案を「舩中八策」の中の1つとして起草していたのです。

当時、革命は度されていた山内容堂は武力行使での討伐が非常に都合が悪いという事で頭を痛めていましたが、この坂本龍馬の案を後藤象二郎は土佐藩を救える策として山内容堂に説得し、大政奉還の建白書を徳川慶喜に提出して「大政奉還」と胃形になったといいます。

明治天皇はなぜ夢枕で坂本龍馬を見てしまったのか?

さて、「大政奉還」の間際に坂本龍馬はなくなっているのですが、不思議な話で何故か明治天皇が坂本龍馬を知っているという話がまことしやかにささやかれていました。

流石に顔の広い坂本龍馬も皇室とは関りはないはずです。

ではなぜ?

ここで何とも素っ頓狂な話として知られるのは坂本龍馬が夢枕に立ったという話です。

皇后の話から周りにいたものが示した結果それが坂本龍馬だとなるのですが、この時その近くにいた田中光顕は坂本龍馬の後輩に当たり、彼が何気なくリークする事によって、明治天皇に日本海軍などの事に関して口出ししてもらおうという思惑があったのではないかといわれています。

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