幕末の英雄として知られる偉人は多く折り、その中でもとりわけ人気が高いというと誰もが坂本龍馬の名を思い浮かべるのではないでしょうか?
生まれた藩を脱藩し、新たなる時代の為に走り続けた坂本龍馬。
しかしその人生は志半ばで暗殺という事件で幕を閉じてしまいます。
一体だれが犯人なのか?
今までの体制や思い描いた様に時代が動かなかったものなども多くいる中、誰もが疑わしくも見えてしまうのは間違いないでしょう。
実は近しい者や全く見当違いの外国の取引先相手かもしれませんし、政治的に不都合があった相手かとも思われています。
そんな中まことしやかにささやかれる犯人には新選組や見廻組の名も挙がっていました。
確かにこの討伐出世は揺れ、そんな世の動きの中でこの新選組に見廻組が坂本龍馬を手にかける理由もあったのかもしれません。
ですが、だとしたらそれらの組織との関係性とはどんなものだったのでしょうか?
それでは、坂本龍馬と見廻組などとの関係についてお話していきます。
見廻組について
幕末というと新選組という部隊の名が頭をよぎるのではないでしょうか?
実際あの特徴的な羽織をはためかせて刀を切り結ぶ彼らをドラマなどでも見るたびに「ああ、幕末の戦いだ!」と何故か思ってしまうのですから印象深いと思われます。
しかし、同時にその他にも違う組織が存在していました。
それが見廻組です。
「新選組のような組織なのだろうか?」と誰もがその言葉からも思ってしまうでしょう。
実際、新選組と同様に京都の治安を守る事が仕事の組織でした。
その始まりは1864年の警察活動を主とする組織で、会津藩主である松平容保の破意かという立場だとされています。
個々だけ聞くと指揮官の違う同じような組織のようにも思えますが違いもいくつか見受けられていました。
例えばこの見廻組には身分制限などがあり、構成員は幕府の旗本に御家人などでした。
これは新選組にはない制度です。
受け持ちの場所に関しても御所に二条城周辺といったいかにも政治がらみな場所であり、国のトップ専用の警察という感じの組織であり、町人街に歓楽街を守る新選組とは違うとされていますし、新選組よりも上の組織であるという認識だったようです。
暗殺時の状況について
さて、坂本龍馬が暗殺されたのは近江屋であり、当時その建物にいたのは2階に坂本龍馬に中岡慎太郎に、1階に下僕の藤吉と近衛や主人夫婦に使用人といった状態でした。
2階には他の客もいたともされていますが不明とされています。
多くで知られる話では夜の8時から10時くらいが犯行時間とされており、十津川郷士数名が龍馬への面会のために訪れたといわれています。
そして、知らないが合ってみようという話になりとおしたところ襲い掛かって来たとされ戦闘になり、ここで坂本龍馬は命付き、中岡慎太郎も重傷を負うのでした。
見廻組犯行説について
さて、この流れだとどこの誰が龍馬暗殺をしたのだろうかと思われるでしょう。
そして上がる名前が有力とされている見廻組なのです。
まず1870年に東京へ送られて取り調べを受けた今井信郎は見廻り組であり、自供をしたというのです。
どうやら坂本龍馬は見廻組からは要注意人物という認識を受けており、他の者を合わせると7人ほどでの襲撃であったとされています。
ただし人数も実行犯も後に何度かある関係者の証言で次々と変わっていることから、定かではない部分も会いますが、あまりにも証言が出る頻度や内容から見ても見廻組が有力と考えられているのです。