坂本龍馬暗殺の容疑があった松平容保と松平春嶽とは?

幕末の英雄、坂本龍馬という名は今やだれもが知っている人物とされる歴史上の偉人です。

一浪人に過ぎなかったはずの彼が、揺れ動くこの時代を走り回り多くの人をつなぎ、そして新たなる時代の礎となる事柄に繋げた事で新時代は始まりました。

しかし、そんな激動の時代を走った彼は暗殺という運命をたどり若くして亡くなるのでした。

坂本龍馬を暗殺したとされる犯人像も、その理由も様々な。

それこそ多くのものがあり、真実とされる答えは未だ出ていません。

そんな中でもやはり暗殺の黒幕としての説が多い人物がいるのも事実です。

そう言った説に出てくることが多いとされた人の中で目立っていたとされるのが松平容保と松平春嶽でした。

それでは、坂本龍馬暗殺の容疑が濃いとされていた松平容保と松平春嶽についてお話していきます。

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松平容保とは?

坂本龍馬暗殺の黒幕として話題に上がる人物の1人である松平容保ですが、一体どういった人物なのかをお話していきましょう。

松平容保の立場としては陸奥国会津藩、第9代藩主にして、会津藩の最後の党首であるとされています。

高須四兄弟の1人であり血筋としては水戸藩主である徳川治保の子孫とされています。

これだけ聞くと将軍様の血筋かと思い色々考えてしまいますが、生まれそのものは松平義建の六男であり書士として生まれたのでした。

その後1846年4月27日に実の叔父である会津藩第8代藩主の容敬の養子となるのでした。

その容姿もかなりの美少年だったという事で騒がれ他とも言われています。

ここに来て会津の家風に基づく教育を受けたとされ、後にその教育が彼の行動の方針となったといわれています。

1852年2月10日に容敬が亡くなった事で5日後である15日に会津藩主となります。

松平春嶽について

この松平春嶽も坂本龍馬暗殺の黒幕ではないかといわれている人物です。

立場としましては第16代越前福井藩主とされていますが明治時代には政治家でもあったとされます。

田安徳川家第3代当主である徳川斉匡の八男として生まれ、松平斉善の養子でもあり、将軍徳川家慶の従兄弟でもあります。

幕末四賢侯の1人とも呼ばれていたようです。

江戸城安田屋敷で生まれ1838年に松平斉善が死去した時、松平春嶽は11歳であったものの、藩主となります。

ペリー来航時は解剖強化などを主張したものの、老中である阿部正弘などと交流し開国に転じています。

その後はアメリカとの日米修好通商条約の朝廷に対して登城して抗議をしたことで、不時登城の罪を問われて強制的な隠居と近親処罰を受け、補佐であった橋本左内は死刑に課せられてしまいます。

松平容保と松平春嶽は龍馬暗殺の黒幕なのか?

ここまでこの2人について説明をしてきましたが、共通の、そして多くの人の意見としては数いる黒幕の中の1人であるというのが実際のところのようです。

そもそもこの2人は坂本龍馬を知っていたのかも怪しいという声も多く、龍馬の主張した大政奉還に至っては松平春嶽も考えていたとされています。

この様に、容疑が掛かっているものの事実不明とされる例が、坂本龍馬暗殺には多くあるようです。

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