坂本龍馬とともに歩いた中岡慎太郎と武市半平太とは?

幕末の英雄、坂本龍馬といえば今も大変な人気のある歴史上の偉人とされています。

そんな彼は、その自由おおらかな人柄と人と機を見る目で新時代を切り開こうと激動の時代を走り回った事で知られています。

坂本龍馬は、自身の持つ能力と同時に多くの仲間や同志たちに囲まれ、つながりを持つ事によってことを成してきました。

坂本竜馬には、暗殺時も一緒にいたとされる中岡慎太郎に、同士を集めていたとされる武市半平太と呼ばれる心強い人々にも囲まれていました。

そして、そんな彼らと共に歩んできたのです。

それでは、坂本龍馬と共に歩んだ中岡慎太郎と武市半平太について紹介していきます。

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中岡慎太郎とは?

1838年5月6日に土佐国安芸郡北川郷柏木村に北川豪大庄屋、中岡小博次とはつとの間に長男として生まれたのが中岡慎太郎でした。

その後坂本龍馬と出会った際は海援隊隊長としてその手腕を振るうその人です。

武市半平太(瑞山)の道場に入門して1861年に武市半平太が結成したとされる土佐勤皇党に加盟する事で同士としての活動を始めたとされています。

彼は後に坂本龍馬と共に行動をしていくことになりますが、性格なのか脱藩後も脱藩志士たちのまとめ役になったり、長州などの各地の志士達の間の重要な連絡役などを引き受けたりすることとなります。

その後も長州藩の免罪の有害無縁な対立を目の当たりにするなどしてさらに薩摩・長州の志士達の間を飛び回り、時に海援隊側や三条側を説き伏せて回り薩長同盟結実に尽力していきます。

後には中岡慎太郎自身も龍馬ともども土佐藩から脱藩となります。

彼はその後も様々な方面にその実力を知らしめて回る事となりますが、最終的には近衛や似て坂本龍馬と共に暗殺されるのでした。

武市半平太とは?

1861年に一藩勤皇を掲げ、坂本龍馬と中岡慎太郎などの同志を集めて江戸において土佐勤王党を結成したのが武市半平太でした。

彼は土佐国吹井村に生まれます。

本来彼の家は土地の豪農であり瑞山より半右衛門が1726年に郷士にとり垂れられたとされています。

1822年に白札へと昇格をしました。

この身分は郷士ではありますが、当主は上士に準ずるとされていました。

その後1849年に城下にて剣術道場を開き、この時の門下に中岡慎太郎らもいたとされています。

そこから江戸へ出て桃井春蔵に学んだ後塾頭となり、桂小五郎や久坂玄瑞に高杉晋作らとの交流もすることとなります。

1861年には土佐勤王党を結成します。

この後、調停工作に奔走し功をそうする事となっていきます。

その後、捕縛され獄中闘争などもあり「君主に対する府警行為」という罪で切腹を命じられ36歳という若さでこの世を去るのでした。

最後に

新時代の為に走り続けた坂本龍馬と、歩みを同じくした彼らは最終的には夢半ばという形で命を落としています。

しかし、彼らの足跡をたどる事で新たに見えるものもあるかもしれません。

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