坂本龍馬が歩く前の時代を歩いた吉田東洋について

幕末の英雄と聞くと坂本龍馬達の様に他姓訪韓に向けてひたすら走り続けた人物の事を想う方も多いと思われます。

実際彼らの行動が新たなる時代へと日本を繋げたと言っても過言ではありません。

しかし、これらの功績の少し前から現状を維持しつつも周りを見て最善とされる手を打つべく生き、その命を落とした方々もいらっしゃったのです。

その方は坂本龍馬と同じく土佐藩の属す上級武士、吉田東洋といい、危うい時代を支えるべく最善を見て生きた人でした。

勿論坂本龍馬とのかかわりはほぼない人物ではありますが、動乱の時代の始まりに飲み込まれたとされます。

それでは、坂本龍馬の歩く時代を目前に倒れたとされる吉田東洋についてお話していきます。

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吉田東洋とは?

まずは吉田東洋という人物の生まれについてお話していきます。

吉田東洋とは1816年(文化13年)から1862年5月6日(当時は5月6日とされる)に生きた江戸時代後期の幕末政治家であり、土佐藩参政という立場にいた人物でした。

彼の父親は土佐藩馬廻役吉田光四郎正清といい家では4男で母親は吉田正幸の娘で室は藩士後藤氏の娘であるとされています。

名前については東洋は号であり名は元吉で幼名は郁助。

通称は官兵衛とされ字は正秋といいます。

城下帯屋町に生まれ兄が早世して1823年に嗣子となります。

その後、1841年に父親である正清が死去した事で25歳で家督を相続して200石の知行を得ています。

吉田東洋の歩んだ道

そんな生まれの彼ですが、父親が死に、天保13年に出仕して9月に船奉行に登用して11月に郡奉行に転身して民政に携わる様になります。

その後、藩主山内豊熙の進める藩政改革に取り組んで飢饉などに備えての藩営の済営倉の設立を進言していきます。

しかし、1845年に病の為その役をのいて療養を始めており、1847年には再び出仕しています。

「時事五箇条」という人事や法令改正に海防についての意見書をまとめて上程したのもこの頃です。

1848年に藩主の豊熙が死去した事により12月に役を退く事となり、1851年に近畿地方を遊歴して国学者である鹿持雅澄や伊勢の漢学者斉藤拙堂など諸国の学者を訪ねて師事して回ったとされています。

その後、江戸に出て藤田東湖・塩谷宕陰・安井息軒らと親交を結んだともされています。

そして、藩主山内豊信に起用されて富国強兵論などを主張した藩政改革を行いますが、保守派の反対にあった事により免職となっています。

その後も情勢変化から復職しており、「門閥政治打破・流通機構の統制強化・洋式兵器の採用」などの改革を行なう事となります。

しかし、1862年に藩主への抗議の後に帰宅途中に安佐とされその人生を閉じています。

新時代へ走る者は既に歩き始めていた

この、吉田東洋が暗殺された日の15日前に日本は新時代への歩みが始まっていたと言っても過言ではない事が起きていました。

坂本龍馬の土佐脱藩です。

この文久2年頃から様々なところで多くの暗殺や将軍の家の結婚に事件にが起きており、新時代に向けて動乱の時が始まっていたのかもしれません。

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