坂本龍馬と海軍塾について

幕末の英雄、坂本龍馬というとなぜだか海を連想してしまう方は多いのではないでしょうか?

確かに世界を見据えての考えや、海を背にしたイメージは多くあるとは思われますが不思議なものです。

しかし、それには坂本龍馬が師事した勝海舟の影響もあるのではないでしょうか?

勝海舟は海軍塾なる私塾を作っていました。

その海軍塾は後に神戸海軍操練所へと受け継がれるとされていたようですが、その神戸海軍操練所も1年ほどで閉鎖してしまいます。

それでも根深く意思の中には海軍塾は残っていたと言っても過言ではなかったのです。

それでは、坂本龍馬と海軍塾についてお話していきます。

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坂本龍馬と勝海舟達と海軍塾

坂本龍馬は勝海舟に師事する事となり、勝海舟も神戸海軍操練所を作る事となった際に作り出したのが海軍塾でした。

しかし、この海軍塾は神戸海軍操練所とは別口で坂本龍馬は塾生を集めていたとされます。

この先の世を見通した結果必要な海軍ですが、神戸海軍操練所は幕府の直下といってもいい状態です。

どれだけ大きな立派なものとなっても、古い考えや制度である幕府の影響を受けていてはどうにもならないという事で、もう1つの同じような教育の場を作る必要があったのです。

海軍塾について

海軍関係の事を教えるということについては神戸海軍操練所も海軍塾もあまり変わらないのかもしれませんがそのバックが違うという大きな違いが特徴的です。

しかも、龍馬が塾生を探した考えとは近代的な考えを持つという事が基準です。

その上で遠洋航海術などを身に着けて世界を相手取って渡り歩ける新しい組織の教えを説きたかったのです。

諸外国と対等に渡り合うために必要な日本海軍が、古い幕府の直下で出来る事の限られた状況を見た結果の行動だったのです。

何よりそのバックたる幕府は弱体化の一途をたどっているので、そこに影響されず航海術に造船技術といった海軍基礎を後世に伝えなくてはならないとあっては、幕府の独占状態である現状は避けなければいけないという考えがあったのです。

私塾ゆえの苦悩とその後

この私塾は神戸海軍操練所とは違い「私塾」です。

支援は全くありませんでした。

龍馬は松平春嶽を今でいう株主にして大金を借り入れることでそれらの問題を解決したのです。

そして、神戸海軍操練所は開設されるものの1年で閉鎖と言結果になりました。

これには様々な事件が重なり塾生の死亡が続いたこともあり勝海舟が責任を負っての事とされています。

龍馬達の様な浪士に肩入れする勝海舟が気に入らないものがいたのも原因の1つでしょう。

それでもこの行動は後の亀山社中に続いていくのでした。

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