日本が新時代へと動く少し前に、その礎となるものを作り上げる為に奔走した幕末の英雄が坂本龍馬であるという事は多くの人が知る歴史の1つだと思われます。
坂本龍馬は、例え直接ではないにしろ間接的に必要な事や人をつなぎ合わせてその道を作り出すことに一役買ったと言えます。
そんな坂本龍馬ですが、大政奉還には提案をしたという立場であった為かその場にはいなかったので大きなやり取りをしたのは最後の将軍である徳川慶喜や山之内容堂といった大物ばかりであったのは言うまでもありません。
しかし、やはり案を出した彼を全く知らないという事はないとも思われるわけですが、実際に山之内容堂は別としても、徳川慶喜は当時坂本龍馬については全く知らなかったとされています。
誰が出したのかも分からない案をよく受け入れられたとも思われますが、この器量には坂本龍馬も感銘を受けたとされる記録もあるようです。
それでは、坂本龍馬と徳川慶喜についてお話していきます。
徳川慶喜とは?
まず、幕府最後の征夷大将軍であるとされる徳川慶喜についてお話していきましょう。
江戸幕府の第15代征夷大将軍、徳川慶喜とは1837年10月28日から1913年11月22日までを生きた人物とされています。
名前に関しては字を子邦、号を興山、通称を一橋慶喜とし、改名は幼名の七郎麻呂から松平昭致になり徳川慶喜となっています。
その在職は1866年12月5日から1867年12月9日とされています。
その他の職務としては御三卿一橋徳川家第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督などを務め、徳川宗家を相続して約4ヶ月後に15代目将軍に就任する事となりました。
大政奉還や新政府軍への江戸開城を行ったとされており、明治維新後には従一位勲一等公爵、貴族院議員となったとされています。
徳川慶喜が坂本龍馬を知ったのは新時代が来た後だった
さて、徳川慶喜と坂本龍馬は当然のごとく合う事はありません。
片や株式会社の創立者とはいえ脱藩した浪人と、当時の日本の最高権力者です。
成した事は別としても度台があまりにも違うので、流石の龍馬も知り合いという訳にはいくわけもありませんでした。
しかし、徳川慶喜は結局坂本龍馬の名を知る事となったようです。
一体どこでと思われるでしょう。
徳川慶喜は維新後に静岡県に降り世間との交わりを立つような生活を送っていたとされています。
ですが、当事者である彼でも事の流れのすべてを把握していた訳では無く、何が起きて大政奉還が成ったのかは気になった為、この時刊行されていたとされる維新秘話を集めたような書物を読んでいたと言います。
その中で坂本龍馬の名を知る事となったのです。
最後に
維新後、既にこの世を去っていない坂本龍馬の存在を知り、彼があの裏側で奔走していたという事実を知った時、徳川慶喜も大層驚いたようです。
多くの人が興味本位で読むそれらの書物ではありますが、当事者の目からは別の世界が見えていたのかもしれません。