坂本龍馬の関わった船の名前とその変化について

幕末の英雄として有名な坂本龍馬と聞くと薩長同盟の為に尽力し、「大政奉還」の為に尽力した人物であるというのが多くの人の知る功績です。

同時にその職業は商人であり、日本初の株式会社である亀山中社を設立した人物としても知られています。

しかもその会社の全身ともされるのは海軍操練所であり、会社の業務にも深く関わっており、亀山社中の仕事は船での貿易や物資調達であると言っても過言ではありませんでした。

船を使っての会社運営という事は坂本龍馬もいくつもの船とのかかわりがあり、亀山社中は彼の立ち上げた会社である事から船の名前の命名なども彼の手によるものなのではないかと思われます。

しかし、実際はそれらの事で大いに他ともめていた様なのです。

会社経営者である坂本龍馬と、船の名前すらもめるその背景とは一体どういった事態なのでしょうか?

それでは、坂本龍馬と彼の関わった船の名前の変化からくる背景問題についてお話していきます。

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坂本龍馬の周りの船の名前の変更の背景とは?

この問題の重要な点は、亀山社中が「株式会社」であるという事です。

そう、株主がいるのです。

例として挙げるなら桜島丸などの命名の際に株主である長州藩と亀山社中の社長である龍馬との間で紛争へとなった話があります。

この話は、ユニオン号という船をグラバーの商会で購入した亀山社中でしたが、その運用と命名(同意の意味のように扱われている)の際に認めるか否かで百田という話となっています。

そもそもこのユニオン号は亀山社中の船としつつのその実質、亀山社中がしたのは購入の際の仲介であり、その後の運営にも「桜島丸条約」というものの取り決めで、実質的な所有者となる長州藩と名義などを貸した薩摩藩の物とすることが前提となっていたのです。

すなわち亀山社中の役目は購入の橋渡しとその後の管理であったとされます。

実際この船は薩摩藩の御用とされており、戦争でもあれば薩摩藩と長州藩側の軍船として前線に参加するという取り決めもあったのです。

ただ、この事実を知った際に長州藩は激怒したと言われます。

この時点で、名前も「乙丑丸」として、船長なども長州藩で内定していたからです。

この結果、長州藩側は現状を認めないし、船の代金も未払いなのだから長崎に返すよう主張します。

しかし、その当時は薩長同盟に漢詩で重要とされる時期故に、長州藩に有利とされる改変を条約に施して解決したと言います。

坂本龍馬の関わった船の名前について

さて、龍馬の関わった船は先ほどの桜島丸意外にもいくつもありますので、そちらの商会もしていきます。

まず、先程の話題にあった「ユニオン号」は「桜島丸」となり、長州藩に転売後は「乙丑丸」となります。

亀山社中が海援隊へ転じるきっかけとなる事件の船とされる「いろは丸」のもとの名前も「サラー」といったそうです。

海援隊の船としては「ハドソン号」から「大極丸」。

鮮明解明などは特にないとされた船としては「震天丸・胡蝶丸・三邦丸・夕顔・横笛丸」といった名前であったとされます。

最後に

坂本龍馬といえば船であるというイメージが強いですが、実際はそれ以上の思惑の中を生きてきた事が分かります。

それでも新時代を思い描いた数だけ船と龍馬は関わって来たのではないでしょうか?

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