幕末の英雄、坂本龍馬の生まれ故郷が土佐藩であり、今でいう高知県であるという事は多くのファンたちやそれ以外の多くの人々も知っている話だと思われます。
しかし、今でいう高知県ですが坂本龍馬が生まれた時代の土佐藩については意外と知らないということも多いとされています。
一体、坂本龍馬が生きた時代の高知県土佐藩とはどのような場所だったのでしょうか?
それでは、坂本龍馬の出身地である高知県土佐藩についてお話していきます。
土佐藩とは?
土佐藩とはよく言われますが正称としては高知藩であるとされています。
今が高知県と呼ばれていので、こちらの方が分かりやすいようにも思えるのですが多くでは土佐藩とされていたようです。
そんな藩庁は高知城で、江戸城内控えは大広間詰です。
戦国時代末期には長宗我部氏が治めていたとされています。
1600年に起きた関ケ原の戦いで長宗我部盛親は西軍に与し改易となり、豊臣氏恩顧の大名で遠江国掛川を収めていたとされる山内一豊は東軍に味方をし、大幅に加増を受け土佐一国を与えられたとされています。
そして、明治時代までの間山内氏が治めたといわれています。
土佐には先程名前の出た長宗我部氏が既に存在していたのですが、新たな藩主になじむことなく反乱を繰り返していたらしく、結果新勢力を武士(上士)として、旧勢力である長宗我部氏らを郷士とした為、龍馬の時代の二重構造になった身分制度が出来たといわれています。
この後も長宗我部氏らは反発や教養といった方法をとったため失脚する事となり、龍馬の時代までこの身分制度と山内氏による統治が続くのでした。
土佐藩内の坂本龍馬の身分について
さて、先ほど言った土佐藩における身分制度は二重構造であるとお伝えしましたが、大まかに紹介していきましょう。
まず一番上に「藩主」がいます。
坂本龍馬の時代においては「山内容堂」がこの地位にあります。
その下に上流武士である「上士」とされるくくりがあり、上から「参政・家老、家老格、上席中老、下席馬回、新馬周、上席小姓組、下席留守居組」を言いました。
「参政・家老」には吉田東洋や後藤象二郎がいたとされています。
次に下級武士である「下士」ですが、こちらも上から「白札、郷士、徒士、徒士格、下席組外、古足軽、足軽、下足軽、庄屋」となり、「白札」に武井半平太。
「郷士」に坂本龍馬や岡田以蔵などがおり、「庄屋」に中岡慎太郎や吉村虎太郎直度がおり、さらに下に「地下浪人」となり岩崎弥太郎がここにおり、後に郷士となるのでした。
最後に
坂本龍馬のいた土佐藩内では始まりは争いがあり、その名残で地位が出来たという形になったようです。
感覚としては今では少し考えられない様にも思えましたが、龍馬はそれらを変えて新時代に向かっていったのでしょう。