坂本龍馬は黒船来航のその時に?

幕末の英雄坂本龍馬が新時代を築くべく、「大政奉還」をもって、無血革命を目指し奔走した話は、日本人であれば伊達もが知る歴史的出来事であることは言うまでもありません。

その大義の為に、多くの日本初となることを実現し続けた坂本龍馬ですが、その始まりといえばやはり黒船来航ではないでしょうか?

勿論、坂本龍馬も最初から時代を動かすような大義を行おうとしていた訳ではありませんから、この事件が事実上始まりであることは間違いありません。

それでは、坂本龍馬と黒船来航についてお話していきましょう。

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坂本龍馬が黒船来航に遭遇するまでの経緯について

1835年11月15日に土佐藩下級藩士、坂本八平のもとに次男である坂本龍馬が生まれたところから始まります。

その後1846年に龍馬が12歳の頃、母親である幸がなくなってしまいますが、伊予という女性が後妻として彼の前に現れます。

以降彼はこの伊予に教育され、その関係で彼女の実家である川島家へ出入りするようになります。

結果川島家にあったとされる世界地図などの品を見る機会から外国へのあこがれを持ったとされます。

ただ、幼年期の龍馬はあまり賢い方ではなかったのか、楠山塾に通えど退学してしまうのでした。

1848年には日根野弁治の道場に入門して小栗流を学んだ後、「小栗流和兵法事目録」を得る事となります。

この事から剣術の修行をして更に腕を磨く為江戸自費遊学へと出かける事となります。

ここで北辰一刀流で有名な、桶町千葉道場に憂悶するのでした。

そして来たるは1853年。

浦賀沖にペリーの率いるアメリカ艦隊が現れます。

そう、これが日本と龍馬が遭遇した黒船来航であり、後に黒船事件と呼ばれる事件でした。

黒船来航とは?

龍馬が江戸につき2ヶ月後の6月6日にマシュー・カルブレイス・ペリー司令官のアメリカ東インド艦隊である、通称黒船が相模国浦賀沖に姿を現すのでした。

この時、今までの諸外国とは違い強硬的な様子で黒船穿きましたが、その裏にはアメリカ側の事情があったようです。

当時のアメリカ大統領フィルモアはタカ派とされており、東アジアの植民地確保の為には武力行使もお構いなしという考えと方針だったといわれています。

故に、いきなり江戸湾に入り砲撃するといった強硬姿勢を取ったとされています。

黒船来航。その時龍馬は?

突然の黒船の出現に幕府は大騒ぎになります。

勿論、この時は龍馬もまだ土佐藩士だったので、品川の土佐藩下屋敷の守備の臨時招集で集められます。

ただし、この時彼は黒船見たさに飛び出すという行動をとっています。

時代の風雲児はこの時点でも風雲児だったようです。

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