坂本龍馬というとやはり自由で新しいものに興味を持った陽気な色男といった印象もあるといわれます。
その為か、妻であるお龍以外にも、何人もの女性と付き合いを持っていたといった話も数多く残されています。
そんな坂本龍馬ですが、多く付き合いを持つ長崎丸山芸妓の「お元」という名の女性が最も親しかったとされる話が多く残っているようです。
そして、不思議なことにこの芸妓の「お元」に関しては坂本龍馬の没後は姿を消したとされているのです。
それでは、坂本龍馬と歴史から消えた「お元」についてお話していきます。
坂本龍馬の恋人、「お元」とは?
まず坂本龍馬には現地妻とされるほど親しい女性が複数おり、その代表となるのが「お蝶」、「お徳」。
そして、最も深い仲だったのが「お元」となっているのです。
この「お元」とは肥前国漁師村茂木で生まれたとされ、坂本龍馬とは慶応年間、長崎の亀山社中結成の際に出張中であった際に知り合ったとされています。
ただこの「お元」という女性には非常に不明な点も多くあり、生没年零が不祥であるとされたり、そもそも「お元」という女性は明治初年においてリストアップされた長崎芸妓の資料にて2人確認されているという点がありますが、いずれにしろその後出された多くの作品においても書かれることが多い人物です。
お元という人物について
残った資料などから様々な説があったとされるものの、その人物像についてはいくつか述べられているようです。
丸山芸妓の中でも琴や三味線がうまい。
よく気の付く美人であったなどとされているといわれています。
その出会いの時期としては先に述べた通りとされいます。
時期として坂本龍馬は亀山社中の本部の屋敷でお龍と暮らしてはいたものの、とある事情からお龍を下関の豪商・伊藤助太夫の屋敷に預けたとされます。
その時に丸山芸妓である彼女と暮らしていたようです。
亀山社中が経営難になった打開策である後藤象二郎との会談の席でも「お元」が同席していたとあります。
こういった局面において、坂本龍馬を支えながら暮らしていた女性で、いわば現地妻といった立ち位置にあったようですが、坂本龍馬も「お元」を安らぎの場としていたようです。
坂本龍馬の割と多い女性関係
坂本龍馬の没後、「お元」の消息も不明となっていますが、坂本龍馬とこういった関係になった女性は実は複数いた模様です。
例えば公家の腰元をしていた京美人のお蝶という女性がおり、江戸へ連れて行ったという話もありますし、土佐にいた頃なら高知城下で漢方医をしていた岩本里人の娘であるお徳と深い関係であったとされています。
この時代においては、討伐などで多忙を極めたい人が現地妻を持っているということは、そう珍しいとされていなかったようです。