坂本龍馬と岩崎弥太郎の関係と三菱への関わりについて

幕末の英雄「坂本龍馬」と聞くと、誰もが日本を変えたヒーローとしてあこがれる場合が多いと思われます。

同時にその道にその人生を交わらせて同じ時代を生きた同士と呼べる関係となる方々も多くいます。

そして、それらの関係などは実際の歴史からはもちろん、近年であれば創作の書物の影響も多くある事でしょう。

そんな中、坂本龍馬の幼馴染として多くの方に見られている人物に「岩崎弥太郎」という偉人がいます。

彼の偉業は坂本龍馬の生きた時代から始まり、その死後に至っては「三菱商社」を含む実業家としてその名をとどろかせていきます。

ですが、実際の歴史とフィクションが入り混じったような状態になっている部分も多くあります。

それでは、実際の歴史から坂本龍馬と岩崎弥太郎、そして三菱の関係についてお話していきます。

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坂本龍馬と岩崎弥太郎について

さて、幕末の英雄とされて書かれることの多い坂本龍馬と、その親しい関係とされている岩崎弥太郎についてまずお話しましょう。

坂本龍馬は1835年に現在で言う高知県高知市に「土佐藩士坂本八平の次男」として生を受けました。

この坂本家とは本来武士の家ではなく郷土株を持つ豪商の分家の裕福な家庭であるとされています。

その後1862年に土佐を脱藩して志士としての活動を始めます。

長崎では貿易会社であり政治組織でもある「亀山社中」を結成し、後に薩長同盟と大政奉還の成立に大きく貢献しと罰と明治維新に大きな影響を与えたとされています。

一方、坂本龍馬と共に大義を成しえる役目に一役買ったとされる岩崎弥太郎ですが、1834年に現在の高知県安芸市で、地下浪人と呼ばれる身分の低い武士の家に長男として生を受けます。

半農半士といった立ち位置の家だそうです。

幼少時から文才に明るかったといわれていますが、江戸の遊学中に父親が酒に良い喧嘩をした際東国をされたことで帰京し、その冤罪を訴えた事によって岩崎弥太郎自身も投獄されました。

この獄中に同房にいた商人に算術に商法といったことを学び、出獄した後は吉田東洋の私塾に入門をしています。

そこでも後藤象二郎に認められ、土佐藩が外国との貿易を行う為に長崎に土佐商会を設立した際は彼も働くことになりました。

実際の坂本龍馬と岩崎弥太郎の出会いと関係

多くの方は坂本龍馬と岩崎弥太郎は幼馴染である思われている場合があります。

しかし、実際この2人が初めて接触を持ったのはそれよりずいぶん遅く、龍馬が作った亀山社中が海援隊と名称を変えて、土佐藩の外郭機関になる時だといわれています。

岩崎弥太郎と三菱について

岩崎弥太郎について紐解いていくと出てくるのは実業家であったという話が多いと思われます。

海援隊の場合もですが、坂本龍馬暗殺後に土佐商会での業績が認められた際上士の身分が与えられたころからさらに出世をすることとなります。

九十九商会に三川商会に三菱商会と経た後の1874年には「三菱蒸気船会社」の社長にも就任しています。

その後三菱は明治政府の信頼を得て成長していくのですが、その功績は直接ではないものの、坂本龍馬の築いた亀山社中改め、海援隊から始まったものなのかもしれません。

その後の1885年に、岩崎弥太郎は52歳でこの世を去ったといわれます。

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