幕末の英雄として知られている坂本龍馬は多くの女性と関係を持っていたというのは有名な話として知られています。
そんな中彼の嫁と知られる女性が「おりょう」という人物であったことは多くの人に知られています。
時に坂本龍馬の危機を救いながらも共に生き、しかし最終的には近江屋の事件で夫に先立たれた女性です。
その人生はどのようなものだったのでしょうか?
それでは、坂本龍馬の嫁、おりょうについてお話していきます。
目次
坂本龍馬の嫁、おりょうとは?
まずは、坂本龍馬の嫁とされるおりょうという女性についてですが旧名を「楢崎龍」といい、1841年7月23日に生まれ、1906年1月15日に亡くなったとされています。
坂本龍馬との出会いは侍医であった父親の死後の困窮していた時期となっており、その後の嫁入りとなったとされています。
寺田屋での事件では彼女の機転により坂本龍馬を救ったとされています。
その後、傷を負った龍馬の養生も兼ねて温泉などを回り、これが日本における初の新婚旅行であるとされました。
おりょうと坂本龍馬の死について
坂本龍馬が暗殺されなくなったのは1867年11月15日でしたが、そのことをおりょうが知ったのは龍馬が死んでしばらくした12月2日だったとされています。
坂本龍馬の死を知ってしばらくの間は気丈にふるまっていたとされていますが法事が済んだ後に髪を切り、仏前に供えて号泣されたとされています。
坂本龍馬の死後の行方について
坂本龍馬の死後は、しばらく三吉慎蔵が面倒を見ており、坂本龍馬の生前の希望で、妹である起美が海援隊の菅野覚平衛と結婚をします。
その後、未亡人となったおりょうは坂本家に送り届けられますが家族とはそりが合わず、3ヶ月ほどで立ち去ったとされます。
この不仲説では乙女との話も上がっていますが、おりょうの証言から考えると実際には義兄夫婦との不仲の方に理由があるとされています。
そののちに妹である起美の嫁ぎ先の千屋家(菅野覚兵衛の実家)で世話になっていたようですが、覚兵衛の海軍省への出仕からの留学となった為、1869年頃に土佐を出たとされます。
この際、坂本龍馬からおりょうへの手紙は2人の思い出として、1通以外はすべて燃やされたといわれます。
次におりょうは寺田屋のお登勢を頼りに京都に行って坂本龍馬の墓所の近くで暮らそうとしましたが結局は京都にいづらいということで東京へ出ます。
東京では勝海舟や西郷隆盛などを頼ったとされています。
その後は海援隊などのを頼り、中居の仕事などをしていたともされているが、真偽は不明とされており、1875年に西村松兵衛と再婚して西村ツルとなって横須賀で暮らしていたとされます。
その後、母である貞を引き取って、妹の光枝の子供の松之助を養子としているが相次いで亡くしたといわれています。
最終的にはアルコール依存症になり、貧窮の中で1906年1月15日に66歳で亡くなったとされています。