激動の時代を生きた、幕末の英雄坂本亮もの半生は、18歳に時の黒船事件以降常に様々な荒波が襲い掛かっていたようです。
若くして勝海舟と共に海軍操練所に関わり、亀山社中を立ち上げ、その後の組織解体と再設立など話題は尽きる事がないと言ってもいい人生でしょう。
そんな中で坂本龍馬は何度も命の危険にも見舞われます。
坂本龍馬の定宿とされていた寺田屋においても有名なのは伏見奉公による暗殺未遂と言ってもよい事件が起きていました。
それでは、坂本龍馬の定宿である寺田屋で起きた、伏見奉公との事件についてお話していきます。
坂本龍馬の定宿、寺田屋
坂本龍馬が定宿としていたとして多くの人に知られている寺田屋ですが、本来は伏見の船宿でした。
この寺田屋は江戸時代から続いている旅館でもあり、坂本龍馬の足跡も多く残る宿として知られています。
鳥羽・伏見の戦いで焼けてしまいますがかつて建っていた場所の隣に再び再現して再現されており、今も旅館営業しています。
伏見によりもたらされた寺田屋事件
坂本龍馬を語る上で外すことのできない事件は多くありますが、この伏見奉公側により引き起こされた寺田屋の事件と後に坂本龍馬が暗殺されてしまう近江屋の事件は特に色濃く人々の記憶に残っているのではないでしょうか?
しかもこの寺田屋ではいくつかの大事件が起きていたというのですから更に目が離せません。
起きた事件は大きく分けて2つあり、まずは1862年に起きました。
これは薩摩藩士同士の同士討ち事件のようで、江戸時代末期には薩摩藩を脱藩しての若い活動かが多く勿論薩摩藩並びに当時の藩主である島津久光は面白くないので、寺田屋にそういった若者が集まったという事を耳にし、刺客を送ったといいます。
その際に何人かを殺害して送還したといわれており、その送還された中には後の西郷従道に大山厳もいたとされます。
そしてもうひとつが、我々の知る伏見奉公による坂本龍馬の暗殺事件である寺田屋事件です。
1866年に起きたこの事件は暗殺未遂事件であるというのが本当のところでしょう。
薩長連合という大きなことを成し遂げた龍馬は寺田屋に妻となるおりょうなどを待たせていました。
到着したのは夜中だったのですが、三吉慎蔵とお酒を飲み始めますが、その頃既に伏見奉公の捕吏たちに取り囲まれていたようです。
しかし、おりょうが窓の外での異常を目撃し、裸で龍馬のもとに行きそのことを知らせた事で脱出することが出来たのでした。
寺田屋事件のその後
結局、坂本龍馬は怪我こそしたものの命の危機は去りました。
この事件で発生した戦闘において志士も薩摩藩士にも死傷者が多くで、切腹を命じられた者もいたようです。
何人かの組織の上に立つ人々についても帰藩謹慎を命じられるという大きな事件になったようです。