坂本龍馬を語る上で外せない話題といえば数多く存在すると思います。
様々な日本初を作り出したことや、多くの偉人と共に時代を歩んだこと。
その類稀なる才と自由な生き方や魅力など、多くの逸話や名言なども残されています。
そんな中、幕末のヒーローとされた坂本龍馬にも失敗があり、しかしそれすらも後期へと変えた事件がありました。
それはいろは丸事件と呼ばれる船舶の自己でした。
この事故には法的な要因や政治的な意味合いがいくつも絡んでおり、特に紀州。
今でいう和歌山の軍艦が事故の相手ということもあり様々なやり取りがあったとされます。
それでは、坂本龍馬の前に立ちはだかったいろは丸沈没と和歌山についてお話していきます。
いろは丸とは?
そもそも、事件の名にあるいろは丸とはいったいどういった船なのでしょうか?
このいろは丸は、欧州藩郡中奉公の国島六左衛門が長崎で坂本龍馬と五代友厚の仲介でポルトガル領事のジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロより4万メキシコ・パタカ(約3マン3600両)で購入した船とされています。
大週販は幕府にいろは丸を城下町人の購入戦として届けました。
ですがこの船購入の裏には、1867年1月30日に国島六左衛門が購入の責任により切腹をしたとされたということもあったようです。
その後、欧州藩は坂本龍馬の海援隊の為に使用契約したとされています。
いろは丸沈没事件について
先に述べたいろは丸が事件にあったのは1867年5月26日で、23時頃に伊予国大州藩所有の海兵隊が借り受け、長崎港から大阪に向かったとされ、その際に長崎港に向かっていた紀州藩(和歌山)の軍艦である明光丸が現在の岡山県笠岡市である備中国笠岡諸島の六島付近で追突したとされた事件であるといわれています。
この時いろは丸は大破して自力航行不能となったため明光丸により坂本龍馬たち隊士は備後国沼隈郡鞆の浦へ渡される。
この際いろは丸は沼隈郡宇治島沖で沈没したとされている。
その後について
この事故は土佐藩と紀州藩(和歌山側)との事件という形になってしまったため、坂本龍馬たちは償金などの交渉が行われたといわれています。
その中で龍馬たちが紀州藩(和歌山側)に行ったことは、まず「一戦交える覚悟でやるんだ!」と隊士たちに激を飛ばして航海日誌などの保全を命じたといわれます。
そう、臨戦態勢を作り世論操作と情報発信を行い、身内の安全の確保を行い、とにかく筋を通して交渉を行ったのです。
同時に強力な応援体制確保と交渉着地点と決着対応をしっかり決めて臨んだのでした。