幕末を語る上で、土佐勤王党という組織があったという事は多くの人々の内で知られています。
何を隠そうそれは幕末の英雄である坂本龍馬の故郷である土佐藩での話なのでさらに多くの人が知っているとされます。
しかし、実際は何をしていたのかやどういった経緯があって存在していたのかについても良く分からないという方もいらっしゃいますし、この土佐勤王党には坂本龍馬も参加はしていたようですが、脱藩した事などもあり結局は袂を分かってしまっているようです。
それでは、坂本龍馬も参加していたとされる土佐勤王党とその周辺についてお話していきます。
土佐勤王党について
まずは土佐勤王党についてお話していきます。
この土佐勤王党は1861年に土佐出身の武瑞山が江戸留学中に結成したとされる組織です。
大石弥太郎が起草した盟約書があり、尊王攘夷思想にて、安政の大獄により失脚した前藩主である山内容堂の意志を継ぐこという内容があると言います。
その後最終的に200名あまりの参加者を集め、同士や協力者も含めると総勢500名を超えたとされます。
その参加者は下級武士に郷士に農民という面々が主であったとされています。
土佐勤王党には坂本龍馬も参加していた
さて、この土佐勤王党ですが、幕末の英雄にして薩長同盟を結ぶべく奔走し、間接的にとはいえ大政奉還の為に尽力したとされる坂本龍馬も一時期、中岡慎太郎や岡田以蔵らと共に参加していたとされています。
ですが、代表ともいえる武市らとの考えが合わないとの事で脱退をしたとされています。
何故この土佐勤王党が大きくなり幅を利かせる事になったのか?
この土佐勤王党はどう見ても内部分裂すら辞さないものであり、当然周りもひやひやするような組織だったはずです。
しかし、そんなこの組織はなぜか有利に動いていたとされています。
一体なぜでしょうか?
その1つの説としては、当時の土佐藩家老である吉田東洋が掲げていた案が改革路線にあり、保守派層が不満に思っていたという事態があったからだと言われています。
過激な尊王攘夷の思想を掲げる土佐勤王党は本当なら正反対の立場であるはずが、吉田東洋に対抗するという目的などの利害一致が見られたため、協力関係が樹立していたのです。
しかも、1862年5月6日に吉田東洋の暗殺に成功した結果、土佐藩の実権を握る事となるのでした。
その後も尊王攘夷運動の中心として、各藩との交渉などを行いつつも暗殺活動を行っていたとされます。
ですが8月18日の政変以降には京都で尊王攘夷派に代わって公武合体派が強くなり、山内容堂が弾圧を行い、武市は投獄されることとなります。
最終的には武市は切腹する事となり、土佐勤王党は消滅という形になるのでした。