日本人のほとんどが知る時代の風雲児であり英雄と称されている坂本龍馬が生きた時代は、幕府の収める時代と近代の境目の時代とされています。
何故ならこの頃からそれまで鎖国により限られた国としか付き合いのなかった日本がその門を開き、多くの国とのかかわりを持つようになっていったからです。
そんな中、当時の日本と深く関わりのあったのはヨーロッパであり、中でもフランスやイギリスとのかかわりは大きかったと言えます。
理由としては後の明治維新の際でもご存知の通り、フランスは幕府を、イギリスが薩長を支援していた事からです。
その結果が戊辰戦争へとつながってしまったので、良かったのか否かについては今となっては不明とされています。
ただ、フランスやイギリスとのかかわりは坂本龍馬の人生にも大きく関わっていたというのは確かとされます。
それでは、坂本龍馬とイギリスとの関係について知られているお話について紹介していきます。
イギリスと幕末の思惑
まず、坂本龍馬は平和的解決の為に薩長同盟を進めた武器商人であるという事は誰もがご存知の事実です。
その取引先がイギリス側であるグラバーやジャーディン・マセソンであり、薩長の維新軍の支援をしていたとされる海外企業です。
ただし、坂本龍馬の想いは別として相手は企業人。
商売人です。
その前提としては、とにかく戦火をあおって広げて武器を売りつけたいというのが実質の想いです。
故に多くの重機などが日本に入っていきます。
しかも、このイギリス商人たちは取引先として坂本龍馬達維新軍以外に、時として幕府にも武器を打っていたとされます。
イギリスではこの頃から革命の影響もあって様々な事業展開もあったのでさらに勢いは加速していきます。
同時に戦争の状態もひどくなる一途をたどっていくのでした。
坂本龍馬暗殺は彼の平和的新時代を目指したが故だった?
さて、最初に龍馬が亀山社中を立ち上げて薩長同盟を成し目指した大政奉還ですが、目的は平和的新時代を目指したためでした。
その為にイギリスと関係を持ち取引相手としていた訳ですが、先程の思惑から相手は武器を多く売りさばきたいので戦争を広げたいと考えています。
ここですでに両者の望んでいた最初の関係ではなくなっているのです。
大政奉還を望み、船中八策を間接的に受けた山内容堂は大政奉還を成し、内戦を防ぐこととなります。
そして、更に坂本龍馬が平和的解決を進め続ける事はイギリス側にしてみれば望んだことではないとして、1867年11月15日に暗殺を実行したという説があるのでした。
坂本龍馬とイギリスの関係とフリーメイソン説について
さて、いくつかある坂本龍馬暗殺につながるとされる説にも関係がありそうなイギリスの関係ですが、少し変わり種とも言われるのが、坂本龍馬がフリーメイソンとかかわりがあったのではないかといわれるものです。
確かにフリーメイソンの発祥はイギリスとされています。
そして坂本龍馬はイギリスに渡航したとされています。
故に影響を受けたのではないかという説もあるのです。