幕末の英雄、坂本龍馬には多くの兄弟や従姉妹などがいたという事は広く知られています。
そんな中、彼の身内にも激動の時代を歩き、変えていこうとした人物がいたのをご存知ですか?
その人物の名は武市半平太といい、土佐勤王党の中心として一時は土佐藩の藩論に強い影響を及ぼしたとされています。
まさか坂本龍馬の身内にそんな人物がいたとは誰もが思われるのではないでしょうか?
しかも、どうやら坂本龍馬と武市半平太の関係はある時期まではずいぶん親しい関係であったともされています。
それでは、坂本龍馬と武市半平太の関係についてお話していきます。
目次
武市半平太について
まずは坂本龍馬と武市半平太の関係を語る前にどんな人物だったかを紹介しておきましょう。
武市半平太は1829年生まれの土佐藩郷士です。
当時の土佐藩では階級が上士と郷士に分かれており、郷士は酷い差別を受けていたとされています。
ですが、この武市半平太に関しては身分は低かったものの、研鑽に努め、土佐藩に対しても影響力があったという事で土佐勤王党の中心として一時は土佐藩の藩論に影響が強かったとされています。
しかし、あまりの過激さから、全藩主であった山内容堂にも煙たがられ投獄され、最終的には切腹に追い込まれてしまうのでした。
坂本龍馬と武市半平太の関係とは?
さて、坂本龍馬もかつては土佐勤王党に属していたことがありましたが、この2人の関係としてはさらに昔からあったようです。
そもそも、龍馬と武市半平太は親戚関係にあった事から、年齢的には武市半平太の方が7つ上とされていますが、その実は幼馴染であり兄弟の様な関係であったのではないかとされています。
性格そのものは謹厳実直な半平太と自由な龍馬でしたが、逆にそれが良かったのかもしれません。
2人はその正反対な性格から合わないかとも思われましたが憎まれ口をたたくかのような関係であったとされています。
龍馬の脱藩の際も「土佐におさまりきらない人物だから脱藩は仕方のないこと」といい、庇ったとされています。
2人の道が分かれたのは?
そんな2人が離れるきっかけとなったのは土佐勤王党の活動から、龍馬が脱藩を決めたことがあるようです。
幕府を倒す際も平和的にと考える龍馬と、過激派であった半平太の土佐勤王党ではその活動の中でずれが生じて行ったのでした。
同時に半平太は土佐から動かずの姿勢に対して、龍馬の視野は藩の外に向いていました。
この決定的な違いから、袂を分かる結果となってしまったのでした。