坂本龍馬が新時代の為に走り回っていた幕末の世。
勿論そんな変わりゆく時代にはその時点で決定的な、それこそ時代を変える力を持った人物も多くいました。
その1人が幕府の外様大名である、山内容堂でした。
それこそ坂本龍馬の目指した「大政奉還」に王手をかけたと言ってもいい人物です。
浪人の身で薩摩藩と長州藩をつないだ坂本龍馬と、その先を進めた山内容堂はある意味裏表のような考えからくる人物でもありましたが、結局新医大への扉を開く事となりました。
それは一体どういった役割を担った結果だったのでしょうか?
それでは、坂本龍馬が動いて、山内容堂が王手を指した「大政奉還」に至る道についてお話していきます。
山内容堂について
まず、山内容堂がどういった人物であったかについてお話していきましょう。
山内容堂は幕末の外様大名であり土佐藩15代藩主とされています。
誕生は1827年1月21日とされています。
ただ藩主となってはいるものの、その地位はかなり下の方であったとされますが、それは側室の子供であったこともあるようです。
しかし、13代藩主と14代藩主が相次いで亡くなり、本来の嫡男とされていた弟がいたがまだ幼かった事などがあり彼の周りでも老中首座の阿部正弘に働きかける事で藩主となったとされます。
ちなみに容堂の名は隠居後の名であり、この時点では豊信であったとされています。
実力としては西洋に学んだ軍備や財政に若手の勉強にと力を入れ、身分制度について見直すなどの新たな取り組みなどにも手腕を振るっているなど非常に優秀な人物とされています。
一方、これほどまでに高い能力を持っていたものの私生活においては酒に女にと妾なども多く、朝から飲んだくれていたとされ、そんな状態で藩政を決めたり、寄ったまま朝廷会議へ出席するといったことまであったそうです。
坂本龍馬と山内容堂の接点について
大政奉還という大義を武力討伐では無い平和な方法でと望んだ坂本龍馬は薩摩藩と長州藩の間でまず同盟を結ぶことで衝突やその間の問題に立ち向かおうとしていたようです。
ここまでしていたのならばどこかで面会でもしていたのではないかとも思われますが、そんな記録はないとされます。
そもそも、坂本龍馬は脱藩している流浪の身です。
そして相手は言うならばその一番上の地位に立つ人物なのですからいわば裏切り者やその辺の一般人といった感覚の坂本龍馬と会うようなことはなかったようです。
ただ、間接的にその動きを探るなどはどちらと知れず行っていたかもしれないとされています。
坂本龍馬が目指したのは武力討伐ではない方法「大政奉還」だった
坂本龍馬が思い描いた新時代の一歩が「大政奉還」であり、それあのひな型といっていい案が「舩中八策」です。
本来、山内容堂のやり方と坂本龍馬のやり方は真逆であったはずですが、結果として坂本龍馬のやり方が通った形となりました。
山内容堂は本来幕府側の人間といってもいいはずでありながら、15代目将軍である慶喜に「大政奉還」を突き付けて行ったのです。
一体なぜ?
先程の「舩中八策」は坂本龍馬の案ですが、実は後藤象二郎は自分が作ったという様に山内容堂に献策しており、それに賛同しその中の「大政奉還」に乗っていってしまったのでした。
強引なやり方のようにも思えますが、この方法は結果として慶喜の事も救っており、この判断力は「機を見るに敏」とされる行動となり、彼の有能さゆえになされたとされています。