幕末の英雄というと一番に思い浮かべる事が多いのは坂本龍馬であるという人は多いという声をよく聞きます。
確かに近年ドラマや小説などの影響もあり、あの次々と多くの事を成していく様子の格好の良さに、誰もが目を引かれるものです。
しかし、勿論坂本龍馬も何かしらの失敗はあります。
しかもその失敗はとても大きなものでした。
坂本龍馬を象徴するものはいくつもありますが、その中でも特に大きいのが船であるとされる中、その船にまつわる事件があるのです。
それでは、坂本龍馬が関わった船沈没の事件についてお話します。
坂本龍馬の関わる船の沈没事件、「いろは丸事件」
坂本龍馬は貿易会社である「亀山社中」を設立していたという事は有名な話となっています。
その荷物の輸送手段として使用されていたものが、亀山中社の前身である海軍操練所からきているがゆえに船であったという事も多くの人が知るところでしょう。
その時使用された船の中に「いろは丸」という船があったので。
しかし、1867年4月19日。
いろは丸に積み荷を乗せての物資輸送中、いろは丸が長崎湾を出港しました。
そして4月23日の午後11時頃に岡山県六島沖で紀州藩の軍艦である「明光丸」との衝突事故を起こしててしまうのです。
これにより、宇治島南4km地点で「いろは丸」が沈没し、後に「いろは丸事件」または「いろは丸沈没事件」とされる事件になるのでした。
いろは丸沈没事件で起きた事
勿論水難事故が起きたのですから、坂本龍馬とて多くの問題に悩まされることになります。
目下の問題としては、その自己の原因がどちらにあったかという事と、その積み荷に出た損害についての相手方である紀州藩とどうするかということについてでしょう。
同時に亀山社中の事実上のトップである坂本龍馬自身へも何らかのペナルティは必然だったのではないでしょうか?
ですが、その時の龍馬の対応は申し合わせたように早かったといいます。
現場や関係部署の封鎖から証拠だしなど、様様なことについてです。
その結果、坂本龍馬は自身の犯したミスすら覆い隠し、巨大な額の積み荷の賠償金までも手に入れるのでした。
しかし、これだけの事があったのですから勿論龍馬自身にも何のお咎めもなしとはなる訳もなく、この後亀山社中はその管理を一時を藩の預かりにして、後に亀山社中は誰もが知る海援隊へとその名を変え、新たな組織として、再び龍馬もかかわっていくのでした。
最後に
しかし、 後の世で引き揚げ可能になった「いろは丸」の中には、損害を求めた積み荷など全くなかった事から、「日本初の保険詐欺事件だ」といわれる事態になったようです。
ただこの時の示談は政治的にも「紀州藩と交戦する」事に重きを置いていた事や、龍馬のミスを隠す意味も大きかったといわれています。