高杉晋作と坂本龍馬の関係と上海について

幕末の志士たちの物語というと非常に引かれるものがあるのは言うまでもなく、その1つ1つにドラマがあると誰もが思ってしまうものです。

その多くのドラマの中でも時代の風雲児と称された坂本龍馬が関わったとされる話には様々なものがあります。

その1つとされている有名なものが高杉晋作が坂本龍馬に銃を渡すというものです。

いかにも、幕末ヒーロー同士が未来に向かっていく様そのもののようです。

しかし、実際にこの坂本龍馬と高杉晋作の関係についてはどのようなものだったのでしょうか?

それでは、坂本龍馬と高杉晋作の関係と上海についてお話していきます。

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高杉晋作のとは?

高杉晋作は文久元年(1861)に長州藩主である毛利敬親の後を取って定広の小姓役となりました。

この小姓役というのは付き人の様なものではあるのですが上級武士しかなることの出来ない役職であり、彼が就任するまではその父である小忠太が務めていたとされます。

この小姓役に高杉晋作がつく頃、「長州藩士・長井雅楽」が「航海遠略策」という意見書を提出しており、その内容は幕府と料亭が一緒に開国を進めて海外展開を使用と言ったものだったといわれています。

高杉晋作の進めていたその反対の尊皇攘夷であり、天皇を尊敬して外国などの敵を撃退していくと言ったものだったようです。

その後は反対をする彼らの暗殺実行までにおわせるような事態になってしまったようですが、穏やかに解決する事を考えている桂小十郎などは、その行動に危険と不安があると感じると、高杉晋作を海外に出すことを考え、幕府の募集のあった上海視察へ代表者ということで送り出す事にしたそうです。

その後、文久2年(1862)の5月からの2ヶ月ほどを高杉晋作は上海で過ごすこととなります。

この上海視察において高杉晋作は欧米の植民地のような有様の悲惨な中国の姿を目の当たりにして、日本の未来を不安に思った事がのちの彼の行動につながったといわれます。

坂本龍馬は上海に行ったことはある?

銃などの武器を取り扱っていた坂本龍馬の会社はグラバーなどから仕入れたものがほとんどとされていました、もちろん銃などは上海などでも手に入るとされています。

何より新たな事を見て視野を広げようとする坂本龍馬の事ですから、一番近い外国へ入ったのではないかと思われるかもしれません。

合成写真でもそういったものを目にすることも多くあります。

では、本当のところはどうであったかというと坂本龍馬が上海に言った記録はないとされています。

恐らく坂本龍馬はいきたかったのではないかとされていますが、記録はありませんでした。

そういった話は実はあったものの、その直前で海援隊士である近藤エイ一郎の切腹事件などが起きたため叶わなかったともいわれています。

高杉晋作は龍馬に銃を渡してない?

幕末の二大ヒーローである彼ら2人ですが、某作品などでは友情を語る場面などもありますが、この2人は顔を合わせた事はないそうです。

実際は、部下などを通して接触はあったとされましたが、高杉晋作が他藩の人間を嫌っていたという説もあり、会うことはなかったとされているのです。

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