幕末の英雄とされる人物は多くいますが、その筆頭である坂本龍馬の近くにも多くのヒーローがいたとされます。
その中でも、坂本龍馬がなす為に奔走した大政奉還には多くの友人や偉人が関わっていました。
実際に大政奉還を進言し健白書の提出を行ったのが福岡孝弟と後藤象二郎であったとされています。
この後藤象二郎については多くの場面を坂本龍馬と共に過ごしたともされている人物です。
それでは、坂本龍馬と共に大政奉還に向かって歩んだ後藤象二郎について紹介していきます。
目次
後藤象二郎とは?
後藤象二郎は土佐藩、馬廻格・後藤助右衛門の長男で高知城下片町で生まれました。
叔父であり藩参政の吉田東洋の鶴田塾(小林塾)で学んでおり、同門に岩崎弥太郎もいたとされています。
1858年に吉田東洋の推挙で幡多郡奉行。
文久元年である1861年に御近習目付。
その後は普請奉行として活躍しましたが翌年に吉田東洋暗殺により失脚します。
1863年には藩政復帰を果たし、全藩主である山内容堂の信頼を得て江戸の開成所において蘭学に航海術に英学などを学んだとされます。
1864年には大観察に就任し、公武合体派の急先鋒として武市半平太たちの切腹をさせ土佐勤王党の弾圧をしたといわれています。
1867年には政治姿勢を転換し、尊皇派の坂本龍馬と会談をして提案された舩中八策に基づいて容堂による大政奉還を進言する事となる。
坂本龍馬と後藤象二郎の出会い
先に述べた通り、実際に大政奉還の進言を行った後藤象二郎だがその出会いは土茶飯の財政事情の切迫と近代文化への遅れに対する危機感を抱いた際に長崎で亀山社中の運営中の坂本龍馬への接近をしたのが始まりとなっています。
当初、坂本龍馬と後藤象二郎の間には土佐勤王党の弾圧といったわだかまりもあったものの、階段の後富国強兵や殖産興業の実現についての議論から意気投合したといわれています。
それらを機に2人は頻繁に接触を持つようになり、書記官サトウの訪問の際はそろって面会しているようです。
坂本龍馬と後藤象二郎の歩んだ大政奉還への道
坂本龍馬の考案した大政奉還を含み提唱した舩中八策は、いろは丸事件の賠償交渉に目を付けた坂本龍馬が後藤象二郎と共に藩船「夕顔丸」に乗船し神戸を目指す際の舩中にて説いたものだとされています。
ここで坂本龍馬は新しい国の仕組みなどを語り、今後の方針を示したといわれています。
ただし、この記録は海援隊士長岡謙吉により記録されていたとありますが、現在は不明になっているとされています。
こうして後の大政奉還に向けて2人は歩いて行ったのでした。